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愛着障害 子ども時代を引きずる人々

生きづらさ

前回の続き。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

 

今回はこれの読書感想文です。

 

偉人はみんな愛着障害

本によると、芸術の分野で偉業を成し遂げた人のほとんどは何らかの愛着障害を持っており、安定型の愛着スタイルの人で偉大な功績を残した例はむしろ極めて稀、とのこと。

 愛着障害についてのケースをたどっていくと、すぐに気づかされるのは、作家や文学者に、愛着障害を抱えた人が、異様なほどに多いということである。夏目漱石谷崎潤一郎川端康成太宰治三島由紀夫という日本文学を代表する面々が、一様に愛着の問題を抱えていたというのは、驚くべきことである。

(中略)文学以外にも、芸術の分野で名を成した人には、愛着障害を抱えていたというケースが非常に多い。ある意味、そこからくる「欠落」を心のなかに抱えていなければ、直接に生産に寄与するわけでもない創作という行為に取りつかれ、人生の多くを費やしたりはしないだろう。

(中略)芸術の分野以外でも、政治や宗教、ビジネスや社会活動の領域で、偉大な働きや貢献をする人は、しばしば愛着障害を抱え、それを乗り越えてきたというケースが少なくない。

例としては上記の作家の他に、種田山頭火アーネスト・ヘミングウェイミヒャエル・エンデといった文筆家に加えバラク・オバマビル・クリントンスティーブ・ジョブズなどの政治家・実業家、更にはムハンマドや釈迦といった宗教家まで挙げられていて驚く。

こういう過去の偉人のエピソードは個人的にすごく面白かった。例えば夏目漱石は幼少期、実の母親から「こんな高齢で子供を産むなんて恥ずかしい」という現代では考えられないような理由で(経済的な事情もあったのかも知れないけど)里子に出され、養父母からは溺愛されるものの、事あるごとに「本当のお母さん(お父さん)は誰だい?」と質問責めにされる。もちろん目の前にいる義理の両親を本当の親として答えなければいけないのだけど。コワイ・・・。挙句、養父母が不仲になってからは親戚をたらい回しにされ、実の父親からも冷遇され、といった憂き目にあっている。

 

人間関係を維持することの困難

こうして人嫌いかつ愛情に飢えた回避・不安混合型の愛着障害を持つようになった漱石は、成人後も社会不適合を繰り返す。教師として赴任した高等師範学校、松山の中学校にもうまく馴染めず、渡英先のロンドンでも下宿のおかみさんが自分に嫌がらせをしているという被害妄想に陥って引きこもりに。帰国後、現・東大文学部の講師や第一高等学校の教師になるが、そこの人間関係も嫌でたまらない。その背景には、相手の言動に過剰反応して傷ついたり、過去の自分の体験と紐づけて短絡的に相手を理想化したり逆に敵視したりする、という他者への「二分法的な認知」があったという。人を善人か悪人か両極端に判断し、人間関係を全か無かで考える。嫌いな人にも良いところがあることを認められない。

私はここの部分は、すごくよく分かって「その通り!」と思ってしまった。いい人だと思っていた人に、些細なことでも裏切られたりすると「この人最低!」と思ってしまいがち。特に相手と知り合ったばかりの期間は、この人はこういう人、という評価が激しく変動しやすい。まあさすがにそんなことばかり言ってると誰とも付き合っていけないから、初めから他人に期待しない、相手を全否定しないように心がけてはいる。一種の修行だなあと思う。

あとは、俗世から出奔したり隠棲したがるという仙人のような引きこもり傾向も、「うむうむ」と思いながら読んだ。山頭火が家族も何もかも捨てて漂泊の旅に出たことや、川端康成が25~28歳というイケイケの(はずの)時代に、伊豆の人里離れた温泉旅館に長逗留したという話には憧れすら感じる。といっても、当時と今じゃ東京や世間の忙しなさのレベルが違うよなあ。どうでもいいけど藤崎竜の『封神演義』の太上老君という世捨て仙人も大好きです。

 

治療法は安全基地を作ること

愛着障害を克服するには、安全基地という自分が安心できる居場所を作ることが一番らしい。愛着が壊れてしまっていることが根本的な原因なので、薬の服用や精神分析心理療法はあまり効果がないんだとか。確執があった親と和解したり、それが無理でも恋人や友人と信頼関係を築ければ、自信のなさや虚無感、対人不安などは回復していくそうだ。まあでも、そこに至るまでがものすごく大変なんじゃないかと思う。だって人を避けてしまったり(回避型)、逆に接近しすぎて関係を壊してしまう(不安型)わけだから。ただ治療法はまだ確立されていないものの、 専門家によるカウンセリングでも回復するケースもあるらしい。ひたすら患者の精神状態を分析するのではなく、対話を通じてカウンセラーと信頼関係を築いていくようなものであれば。

結局、死にたくなるような苦しみも死んでもいいような幸福も、根本的には人ありきなところがほんと難しいなあと思う。芸術もビジネスも、ある意味でそこからの逃避のような気がする。